私の読書歴の中で、いまだに印象深く残っている本について、感想程度の文を載せてみたいと思います。たいして読まれてもいないこのブログの、さらに埋め草程度にはなるでしょうか。
このパートだけはどうしても敬体がしっくりこないので、常体で綴ることにします。
北 杜夫 幽霊―或る幼年と青春の物語
きっかけは中学1年の夏、父の書架から引っ張り出して読んだ「どくとるマンボウ昆虫記」だったと記憶している。ユーモアに満ちたエッセイなのに、抒情的なにおいをあわせ持つ文章に惹かれて、この作者の他の作品も読むようになった。
「人はなぜ追憶を語るのだろうか。どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。 だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻をしつづけているものらしい。」
で始まる、非常に美しい小説。安原顕か福田和也だったと思うが、日本の私小説の精華である、というような書評をしていた。大枠では精神医学の知識に裏打ちされた、追憶、無意識、深層心理といったものをテーマとし、詳細では作者が少年期に親しんだ信州の自然、また昆虫に対する膨大な知識を礎とし、トーマス マンに範をとったと思われる息の長い、清冽な描写が物語を支える。
母への追慕、戦争、自然への親和、殊に蝶への偏愛を描き、少年時代特有の死への親和を語る、叙情性ゆたかな文章は、しかし決して甘美なではないと感じられ、それでいて透明な、夢のような文章だ。
何十年もの間、おそらくは年に数回、それこそ「反芻」するように、ランダムにページを開いてナイトキャップとしている。どのページを読んでも、いつも私はその文章に引き込まれ、陶然となる。あえて物語を追う必要はない。
本書の影響からか、当時の私の作文はダラダラと長く、時に意味不明の文章となり、よく教師から注意された。この傾向は高校2年生のころ、川端康成の「文章読本」に出会うまで続いた。
私の純文学に対する興味は、この小説から始まった。「幽霊」をきっかけに私はトーマス マンや他の19世紀末ドイツ文学、日本では、第三の新人やそれ以降の作家たちの作品に目を開いていった。もちろん北 杜夫の他の作品は網羅的に読書した。
